HeartBreakerⅡ  4




沖田の選択




時折苦しそうに眉根を寄せる沖田を、千鶴は病室の枕元で見守っていた。
何もできないのが歯がゆい。
沖田の意識はほとんど戻らず、たまにうっすらと目を開けて、千鶴を確認すると安心したような表情をしてまた目を閉じる。せめて沖田が辛そうなときは傍にいたいと、千鶴はずっと沖田に付き添っていた。
眠る時は沖田のベッドの端に突っ伏して仮眠をとる。

血液検査でもその他の検査でも、沖田には異常は見つからなかった。
千鶴は医者に沖田が血を吐いたことを伝えたが、体の内部で炎症を起こしているような数値も出ないし他の数値もすべて正常の範囲内で、血を吐いたのは多分口の中を切ったのだろうと言われてしまった。
あの咳き込み方、そして薫と沖田の会話。
決してそんな単純な原因ではないと千鶴は思うものの、今はどうすることもできない。
そんな状態が一週間ほど続き、ようやく沖田は少しの間起き上ったり会話をすることができるまでに回復した。

「君さ、僕にかまけてほとんど寝てないんじゃないの?」
沖田の朝食の介助をして千鶴が後片付けをしていると、沖田が顔を覗き込む様にしてそう聞いてきた。
「……ちゃんと寝てますよ?」
「ほんと?」
「ほんとです」
疑わしそうな目で見てくる沖田の視線を避けて、千鶴は逆に沖田に聞いた。ごまかすわけではないがこっちにだって聞きたいことがあるのだ。
「それより沖田さん! 今日こそちゃんと教えてください。血を吐いたこと……」
沖田は茶色の髪をかきあげて溜息をつく。
「またそれ? ぼくもわからないって」
「……」
千鶴は疑わしそうな目で沖田を見た。
「前にもあんなふうに血を吐いたことはあるんですか?」
「うーん……どうだったかな……タイムトラベルで弱ってた時はあったかもね」
「! じゃ、じゃあこのまえ血を吐いたのはやっぱり……」
沖田は、両手のひらを千鶴に向けてあげて降参のポーズをとる。
「タイムトラベルの負荷が人体に与える影響は、ほとんどわかっていないんだよ。でも僕が経験したタイムトラベルは、未来の仲間たちの試算によると死なない範囲だから大丈夫だよ」
「でも! 沖田さん、今、人体に与える影響はほとんどわかっていないって言ったじゃないですか」
「まあ、そうだね。じゃあ……大丈夫だと『思うよ』」
沖田はにっこりと微笑んでそう言ったが、千鶴はとても微笑む気にはなれなかった。
「……沖田さんのあんな姿を見て……大丈夫だなんて思えないです」
「今回血を吐いたのはさ、多分無理をしすぎたせいだと思うんだよね。君を追うためにほとんど寝てないし食べてないし。だからこれから君が安全でいい子にしてくれてればもう血を吐くことなんてないと思う。だって実際、君が僕を見つけてくれたあのこども病院以降、血を吐いたことはなかったんだよ」
沖田の言葉に千鶴の表情はパッと明るくなった。
「そうなんですか? 私と会ってからは、血を吐いたのはあの薫との時が最初なんですか?」
沖田は安心させるように大きく頷く。
「そうそう。だから、良くなってるんだよ」
千鶴の表情が少しだけ緩んだのを見て、沖田もほっとため息をついたのだった。

 

物音が聞こえた気がして、沖田は目を開けた。
いつの間に眠っていたのか、部屋はすでに暗くなっておりベッド脇の読書灯だけが部屋をぼんやりと照らしている。
「……千鶴ちゃん?」
肘をついて起き上り見渡すと、千鶴はベッドに突っ伏して眠っていた。
沖田は小さく溜息をついた。
「よいしょっ……と」
ゆっくりとベッドから起き上がる。彼女をソファに運んでちゃんと寝かせてあげなくては。ここのところ沖田につきっきりで看病して疲れが出たのだろう。
沖田は体をかがめて千鶴を抱き上げる。前は軽々と抱き上げられたのに、今は体力が落ちてるのかかなりきつかった。
「ん……」
沖田が抱きあげてソファに運んでも、千鶴は小さくつぶやいただけで目は覚まさない。相当疲れているのだろう。
そっとソファに降ろし、ソファの足元にあった布団をかけた。
「……良く寝てるね」
額にかかった千鶴の髪をかき上げて、沖田は彼女を優しく見つめる。
前にもこうして寝ている千鶴を見つめていたことがあった。『血のマリア』なのか本当に何も知らないだけなのか迷いながら。
二十年前の過去へとタイムトラベルをする前は、まさか自分が、『血のマリア』を守るためにすべてを捨てることも厭わないほど愛することになるなどとはみじんも思っていなかった。『血のマリア』には嫌悪感しかなかったのに。
今は、こうして寝顔を見ているだけで愛おしいという気持ちに包まれる。
沖田は立ち上がって伸びをした。たったこれだけの行為なのにもう体がだるく感じる。前から痛かった脇腹の奥がズキンズキンと痛んでいた。
沖田は片手を痛む脇腹にあてた。先ほどはなんとか千鶴を安心させることができたが、沖田は実は薫が言っていた事の方が正しいのではないかと薄々思っていた。
徐々に良くなるのではなく、悪くなっていっている。
症状は進んでいるのだ。
確かにタイムトラベルによる負荷は、一時はかなりなくなり治ったのかと思った時もある。だがそれは、羅刹の治癒力によるものだったのだと今は思う。
沖田が変えた時の流れのせいで、沖田の中の羅刹も徐々に消滅した。血の発作や昼夜逆転の生態がなくなったことは嬉しいが、皮肉なことに同時にタイムトラベルの負荷を癒しつつあった羅刹の治癒力も消えてしまったのだ。その頃から徐々に、沖田の体は弱っていっていた。
沖田は小さく溜息をつくと、自分のベッドに腰掛けた。その拍子に、ズキリと痛んだ脇腹を抑える。
これは、時間が経つと治るという類の疾患ではないことを、沖田はうすうす気づいていた。病院での検査でも異常はないという結果だった。にもかかわらず、沖田は自分が徐々に蝕まれて言っているのを感じる。
脳裏に、またタイムマシンの実験結果の猿の写真がよぎった。
多分現代の医学では治せない。未来の医学でも治せるかどうか。
飛び越えた時間の長さや物理的な距離にかかわらず、『二度』タイムトラベルをすると生じる症状なのだろうか。だとしたら、未来での斎藤や土方、新八達の理論が間違っていたということになる。そしてそれはつまり、沖田の遠くない未来の死を意味していた。

沖田は、薄暗がりにぼんやりと浮かび上がる千鶴の寝顔を見た。
守りたい。
彼女を守って二人で幸せな運命を歩いて行きたい。
それが無理ならせめて彼女だけは。
彼女の命はもちろん、『血のマリア』になるような運命からも守ってあげたいのだ。
綱道は殺しても、薫が再び現れた。千鶴はまた、唯一の変若水の適合者として狙われている。この後の展開によっては、最悪千鶴が再び変若水を飲ませられてしまうことも考えられる。
せっかく沖田が命をかけて変えた未来が、また変わってしまうかもしれないのだ。

沖田は、膝の上に力なく置かれた自分の手を見た。ぐっと握ってみても、我ながらあまりにも弱弱しい。

守りきれるかな……

沖田の脳裏には、薫とそのバックにいるらしき組織の存在が浮かぶ。金と人材と権力を豊富に持っていそうな組織。
沖田は、退院したらあの山荘に行ってみることに決めた。以前、綱道コーポレーションから身を隠すために千鶴と行った土方の山荘。
もし未来でタイムトラベルの技術が失われていなければ、あそこに何か土方達から連絡が入っているかもしれない。
沖田が前の時間の流れの時に未来に送った『血のマリア』の血。あれから羅刹を人間に戻す薬を作ると土方達は言っていた。可能性は低いけれどその薬を手に入れることができたら……

こっちから未来の土方さんたちになんとか連絡がとれるといいんだけど。

そこまで考えて、沖田はふと気配を感じた。銃が隠してある枕元に手を伸ばす。沖田が気配のする窓の方へそれを構えると、カーテンがゆらりと動いた。
「……出ておいでよ」
沖田が静かに言うと、病室の窓のカーテンが更に大きくゆらいで、後ろから人影が現れる。
「ここ、十階なんだけどね。できれば廊下から来てくれればまだ見舞いに来てくれたと思えるのにな。まあどっちにしろこんな時間に来るなんで非常識でしかないけど」

現れたのは、黒ずくめの薫だった。
黒いシャツに黒のズボン。細身の体のせいか、千鶴と同じ二十歳のはずなのに少年のようだ。
「起こすと悪いと思ってね。……かわいい千鶴は寝てるみたいだけど」
窓から室内に入った薫は、沖田と距離をとったまま両手をあげる。
「銃を下してくれないか。俺はおまえたちのために組織を裏切ってわざわざ来てあげたんだよ?」
「……」
沖田はそれには答えず、相変わらず銃口を薫に向けていた。薫は諦めたように肩をすくめると千鶴の方へ歩き出す。
「近寄らないでくれるかな」
沖田はそう言うと、銃の安全装置を外した。薫は脚を止めて嘲るように沖田を見て笑った。
「番犬みたいだね。飼い主様の危機には敏感ってわけ?」
沖田は無言のまま銃の照準を薫に合わせていた。薫は狙われているのを気にした風でもなく続ける。
「でも、その番犬、役に立つのかな? とびかかる力も食いちぎる牙も、もう無いんじゃないのか?」
「……何が言いたいのかな。回りくどいのって嫌いなんだよね。言いたいことを早く言って出て行ってくれない?」
薫は、今度は沖田の方を向いた。
「せっかちだなあ。……今日はね、これをお前に届けに来てあげたんだよ。番犬には必要なものなんじゃないかと思ってさ」
薫はそう言うと、腕を差し出した。

彼の人差し指と親指には、ガラスの瓶が挟まれていた。病室の薄暗い灯りを反射して、ガラスが鈍く輝く。
綺麗に装飾を施されたしっかりした作りの小瓶だった。しかし中のに入っているのが赤い液体で、沖田は不審そうに薫の差し出したものを睨む。
「……それは?」
薫は身体を乗り出して、沖田のベッドの上にそれを置いて自分は一歩退いた。そして楽しそうに沖田を見る。

「変若水だよ」

沖田の顔色は変わらなかった。薫はつまらなそうに唇を尖らす。
「……なんだ、あまり驚かないんだね」
「……これは、すぐに狂ってしまうっていう粗悪品? 君が綱道の研究所から抜け出すときに持ち出したっていう初期のヤツ?」
薫は首を横に振った。
「違う。これは一応適合者から作った改良した変若水だよ」
薫の返答に、沖田は不審げに眉をひそめる。
「……どういうこと? 前の世界で『血のマリア』になった千鶴ちゃんの血を手に入れたってこと?」
薫はまた首を横に振って小さく笑う。
「それも違う。俺は、千鶴が変若水を飲んだ世界の記憶はあるけど、おまえみたいに時間を行ったり来たりするタイムマシンはなかったからね。……これは俺の血からつくった変若水だよ。綱道は適合者から人へと移す方法をどうしても開発できなくて、性交渉で感染させるっていう原始的な方法を採用したようだけど、俺たちの組織は、手間はかかるものの羅刹になった適合者の血液から、変若水ウィルスをある程度不活性化させたものをを生成することには成功したんだ。組織が唯一持っている適合者は俺だからね。俺の血から作ったのさ。すぐに狂ったりはしないけど、千鶴に比べればウィルスの不活性化は完全じゃない。だから粗悪品の変若水。……どう粗悪品か聞きたくない?」
「……」
返事をしない沖田には構わず、薫は今度は小さな黒ものをベッドにポンと投げる。それはUSBメモリだった。
「一応それが研究結果。十五で綱道の研究所から逃げ出した俺は、とある国の研究組織に拾われた。そこの組織は、俺が持ち出した変若水と、それを飲んで変異した俺の血とを散々研究し、羅刹のマイナス面をかなり改良することのできる変若水を作り出すことに成功したんだ」
薫はそこで言葉を止めると、沖田の反応を見るように彼の顔を覗き込む。沖田は相変わらず睨む様に薫を見ていた。
「昼に活動して夜に眠るように改良することには成功した。吸血行動はゼロではないにしろかなり抑えることに成功した。理性を保つことは、個体差はあるけど二~三年はもつようになったよ。四年以上理性を保つことに成功した個体は、今のところないのが残念なんだけどね」
「……人体実験をしたのか」
「この世界では人の命なんて一ドルよりも安い地域がいっぱいあるんだよ。表向き人権を謳っている国の組織だけど、それはそれ、これはこれ。それに人体実験の対象は無理矢理選んだわけじゃない。ほとんどみんな立候補だよ」
「立候補?」
「そう。今の自分が嫌いで人からの賞賛や金が欲しくてたまらない人間は腐る程いるんだよ。人をねたんで、悪魔に魂を売ってでも今よりも輝かしい人生を夢見るバカはいっぱいいるってことさ。人間の欲望の方が変若水の副作用よりよっぽど怖いよね。俺たちはその欲望を満足させる薬を与えただけだ。それは翻って研究資金を出している国の国力増強につながる。ノーベル賞の数、オリンピックの金メダルの数、国際大会での優勝の数。なんでも一番が好きな国だからね」
世界が、再び徐々に羅刹の支配する世界へと変わりつつあることを、沖田は薫の言葉から知った。
今の薫の言葉が正しいのなら、現在世界でトップにいるスポーツ選手や研究者の一部は、羅刹ということになる。
綱道を殺したにもか変わらず、世界はやはり羅刹が支配する世界へと変わるのは必然のことなのか。どんなに過去を変えてもその未来を変えさせることは無理なのだろうか。
前の時の流れの中では『血のマリア』から。
この時の流れの中では薫の血からつくったという改良型の変若水から。
世界は再び羅刹が人間を食い物にする修羅へと変わるのか。
沖田の脳裏に自分が生まれた時代の悪夢のような日々が浮かんだ。近藤と土方が立ち上がるまでは、弱い人間は羅刹のエサとしか扱われていなかった。またあんな世界になってしまうのか。
沖田は薫を睨む。薫は面白そうにUSBメモリを顎でしゃくった。
「でも、残念ながら一気に羅刹ワールドにすることはできないんだ。俺の変若水はさっきも言ったとおり粗悪品で、そのせいでね。俺の変若水の一番の問題はね、人から人に伝染すことができないんだよ。二番目の問題は、血の発作と理性の寿命が三年程度であること。『血のマリア』から作られた羅刹なら、人にもうつせるし理性の寿命ももっと長いはずだ」
「……伝染せない?」
「そう。変若水を投与された時の俺はまだ五歳で、免疫も脊髄も未完成だった。そのせいで体内の変若水ウィルスを完全には不活性化はできなかった。その俺の血から作られた変若水も、当然未完成ってわけさ」
「……ってことは君にも血の発作と理性の寿命があるってこと?」
「まあね。一応適合者ではあるから、一般の羅刹よりはかなり進行は遅いけれど俺にも血の発作はあるし、いつかわからないけど理性の寿命がある。変若水ウィルスに俺の細胞がゆっくりと食われてってるのは血液検査を見てればわかるからね」
薫にもタイムリミットがあるということを知って、沖田の目はキラリと光る。薫はそれには気づかずに続けた。
「俺のことはどうでもいいんだよ。それより適合者でない人間を羅刹に変える方法論の確立の方が重要だ。羅刹の三年の理性の寿命もかなりのマイナスの副作用だけど、この伝染せないってのも研究者側からしたら厄介なんだ。伝染せないのなら変若水いちいち作ってを個々人に投与しなくてはいけないけれど、変若水のウィルスは扱いが難しい。その上、俺の変若水をつくるには、まず俺から血を取ってそれから複雑な工程をいくつも実施して、さらにマイナスの副作用を弱めるための工程もこなして、ようやくできあがるんだ。作業中に変若水のウィルスの扱いが悪くて死滅することなんて日常茶飯事だし、工程の一つでも失敗すればもう一度やり直し。つまり大量に生産してばらまくってのは無理ってこと」
「……」
「そして、それが、俺がお前に変若水を持ってきてあげた理由だよ」
薫の言葉に沖田はいぶかしそうに顔を傾ける。
薫は笑った。

「わからない? お前が俺の変若水を飲んで羅刹になったとしても、千鶴には伝染しないってことだよ。その上、約三年期間限定だけどすべての病気や怪我、疾患が治り、超人的な体力と頭脳を与えられる。………今のお前には喉から手が出るほど欲しい物じゃないか?」

病室は千鶴の穏やかな寝息がかすかに聞こえるだけだった。
薄い笑いを浮かべている薫と、真剣な瞳で薫を睨みつけている沖田。沖田の手には薫の心臓に照準が合わされた銃が握られている。

「……確かにね。でも君の目的がわからないな」
沖田は薫に銃の照準を合わせたまま、慎重に聞いた。
「君は千鶴ちゃんが欲しいんだよね? 今、弱ってる僕を殺して千鶴ちゃんをさらうという選択肢がないのはなぜかな。僕に変若水を飲ませて千鶴ちゃんを守らせたら、君たちにとっていろいろ難しくなると思うけど?」
腕を組んで沖田の言葉を聞いていた薫は、馬鹿にしたように笑った。
「千鶴を欲しがってるのは俺じゃなくて組織だよ。変若水を飲ませて完全に不活性化させた適合者が欲しいんだろう。実験の被験者としてね。俺の目的は……そうだな、想像してみなよ、例えばお前が変若水を飲まなかったとしよう。千鶴はどうなる? 血を吐いて弱ったお前に守りきることができるかい? まず無理だろうね、千鶴は組織にさらわれて被験者と言う名の実験体にさせられる。なんとか組織から逃げきれたとしても、次にくるのは日々弱って行くお前を見せつけられる不安な日々だ。そうして最終的にお前が死んで、千鶴は結局組織の手に落ちる。俺は、お前が死んで絶望している千鶴が、更に実験動物として救いのない日々を送るのを楽しく横で見物することができる」
薫は言いながら窓の方へと歩いていき、カーテンの隙間から暗い外を見た。そして横目で沖田を見て続ける。
「じゃあ、お前が変若水を飲んだとしたら? ……まあ三年は千鶴を守って組織から逃げることはできるだろう。でも三年をすぎたら? 狂っていくお前を目の当たりにしながら、千鶴は苦しむだろうね。吸血衝動をなだめるために、お前に自分の血を飲ませるかもしれない。そしてお前の人格は崩壊し、当然千鶴を守れなくなる。あとはさっきと同じさ。千鶴は絶望のまま組織にとらわれる」
薫はそう言うと、肩をすくめて笑った。
「どっちにしても、俺はかわいい妹の幸せな顔が崩れていくのを、何度も、じっくりと見物できるわけさ。これは充分メリットだと思わないか? これだけのメリットがあるのなら、今ここで簡単にお前を殺したり千鶴を組織に捕まえさせたりするのはバカらしいだろう?」
沖田は、ギリッと奥歯を噛みしめた。薫の口は楽しそうに笑っているが、千鶴に似たその茶色の瞳は凄みを持って薄暗い病室の灯りの下で光る。
血を分けた妹の、幸せではなく不幸を願う薫の言葉が、病室の空気を冷たくさせた。
沖田は色が薄くなった緑の瞳で薫を睨みつける。
「……狂ってるね」
沖田のその言葉に反応して、薫の楽しそうな表情が一瞬ゆがんだ。
「……そうかもね。俺も適合者とはいえできそこないの適合者で羅刹だからね。いつ狂ってもおかしくない。そう思いながら日々生きてるよ。実はもう狂ってるかもね?」
狂気を含んだ笑みを浮かべて、歌うように話す薫を、沖田は睨みつけていた。
薫の描いた未来予想図は、かなりのところ現実的だ。
変若水を飲まなければ、タイムトラベルの負荷のせいで衰弱して沖田は死ぬだろう。変若水を飲めば、その衰弱の原因は治るが、今度は逆に理性を保てるのが、もって三年しかない。どちらにしても、千鶴がいつかは組織の手に落ちるのは目に見えている。

いや、でも……

沖田は薫を睨み、そして反対側のソファで眠っている千鶴を見た。
一つだけ道はある。かなり勝率は低いが。変若水を飲み、沖田の理性がなくなってしまう前に、千鶴を狙う組織と薫を壊滅状態にしてしまえばいいのだ。

薫がすごむような笑みを浮かべて沖田に向き直った。
部屋の暗い灯りで顔の半分が影になり、黒い目が不気味に光る。うっすらと微笑んでいる唇。
「選ぶのはお前だよ。守りたいと叫ぶだけか、『それ』で羅刹となるか」
沖田が黙ったままでいると、薫が何かをベッドの上に放った。
「ほら、最後のプレゼント」
ベッドのシーツの上でギラリと生々しく銀色にナイフの刃が光る。沖田は硬い表情でそれを一瞥した。
多分戦闘用の、軍隊が使うような専門の……対人殺傷専用のナイフだ。シンプルなデザインがそれの使用目的を明らかにしている。
刃渡りは三十センチはあるだろうか。みるからに肉食な、てらてらと光るナイフ。
「迷ってるお前にいいことを教えてあげるよ」
薫は、ベッドから離れ、窓に再び歩み寄ってカーテンを開けた。
「もうすぐここに、千鶴をさらいに組織の人間がくる。俺が入手した情報が正しければ、人間三人に……できそこないの羅刹が二体。俺は反対したんだけどね、お前が弱ってる今が好機だって聞き入れてもらえなかったんだ。そこで優しい兄としては、組織を裏切ってまで、妹を守るお前に情報と力を与えにきてやったってわけさ。プレゼントの変若水を飲むか飲まないかはお前の自由さ。でも、飲まずに千鶴を守りきれるかな?」
そして窓を開けて、脚をかけて外へと身を乗り出す。
「銃も持っていないかと思ってナイフまで持ってきてあげたんだよ。ああ、でも銃はここでは使わない方がいいな。一般の病院で銃なんか使ったら関係のない人間も殺してしまう。大きな問題になってお前が日本の警察に拘束されてしまったら、千鶴を守るどころじゃなくなるからね。……じゃあ俺は帰るよ」
薫はそう言うと、最後にもう一度振り向いた。
「……また会えるのを楽しみにしてるよ」
夜風とともにカーテンが舞い上がり、次の瞬間に薫の姿は消えていた。
沖田は知らず知らずのうちに張り詰めてた気持ちを、ため息と共に緩める。そして病室の暗い明かりに鈍く光る、ガラスの小瓶を見つめた。

                      

                   


5へ続く



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